私たちは長寿となり人生90年時代を迎えようとしています.しかし,人生全ての時間を健やかに過ごせるわけではありません.大病を患わなくても老いは徐々に進行し,やがては自立困難な状態に陥ります.自立可能な人生の時間を健康寿命といいますが,日本人に於いては平均寿命から8年から10年ほど短いとされています.老化と向き合いつつも如何に長く自立を保てるかが,これから老年期を迎える者にとっては大切といえます.
AIに訊いたところ「私たちの人生は、身体や心の変化を受け入れ、それに対応する旅路のようなものです」との返答でした.まさにその通りだと思います.アンチエイジング流行の昨今ですが,老化による心身の変化を受け入れて身近な方法でこれと向き合うという意味で,お灸によるケアをご提案したいと思います.
難聴と軽度認知障害
先ずは,難聴に対するお灸を紹介したいと思います。老化に対する鍼灸であれば,腰痛だとか関節痛などのサルコペニア的な身近なテーマが良いのではないかと考える方も多いかも知れません。一般的にはあまり知られていないかも知れませんが,鍼灸治療の適応は意外と広範で運動器以外の様々な症状にも適応されます.
長寿化に伴って増加している老化症状の一つに「認知障害」が挙げられます。アルツハイマー病などの認知症を発症する前には必ず「軽度認知障害 MCI:Mild Cognitive Impairment」という状態を経ます.この軽度認知障害は不可逆的な状態ではなく,10~30%程が正常状態に回復し得ると報告されています.
この回復率(リパート率)をどのようにとらえるのかには議論があろうかと思いますが,より早い段階で軽度認知障害に気づいて対処することが回復を促す要因の一であるといえます.
此処で「修正可能な認知症の危険因子」が報告されていますので紹介しておきます。
Livingston G, et al. Lancet 2020
図を見ると一目瞭然ですが、中年期における難聴症状は軽度認知障害のリスク因子としては最も高いとされています.これは難聴により他者とのコミュニケーションにおいて,欲求不満,孤立感,孤独感を抱えやすいためと推測されています.
また,難聴があると認知症のリスクが約2倍になり、アルツハイマー病と軽度認知障害の相対リスクを約3倍増加すると報告されています.
これらから中年期以降で難聴症状を軽減することが重要であることが窺えます.加齢性慢性の難聴耳鳴りについては薬剤による治療も有効性が高いとは言い難いので,ある程度セルフケアが可能な無い処方として灸療をご紹介します.
灸療とは?
灸は、東洋医学における伝統的な施術法で、特定のツボ(経穴)を熱刺激で温めることで、体の自然治癒力を高めたり、症状を改善したりする治療法です。現代では「きゅう師」の免許を有するものが行う免許行為ですが,セルフケアに関しては民間療法として現代でも温灸など灸療の一部が行われています.
以下に詳しく説明します。
お灸の施術方法
- ツボの選定
患者の症状に基づいて適切なツボを選びます。このツボは、体内の「気」の流れを整えるために重要とされます。セルフケアであっても可能な限り自分の身体の気血の状態を診て貰って適切なツボをセレクトしてもらいましょう. - もぐさの使用
お灸の主な材料は「もぐさ」です。もぐさはヨモギの葉から作られる自然素材で、燃える際に安定した熱を発生させます。 - 熱刺激の与え方
以下の方法で熱を体に伝えます:- 直接灸(プロ向け)
小さなもぐさを皮膚の上に置き、火をつけて燃やします。直接熱を感じる方法で、効果が強い反面、火傷のリスクがあります。 - 間接灸(練習すれば一般の方にも可能かも)
皮膚ともぐさの間に隔てるもの(生姜、塩、専用シートなど)を置いて熱を和らげます。初心者や敏感な人に適しています。 - 台座灸(一般向けです)
もぐさが台座にセットされたタイプで、直接皮膚に触れずに使用します。家庭でも安全に使用できることが特徴です。現在では炭化モグサも用いて煙やニオイが抑えられて商品も市販されています.
- 直接灸(プロ向け)
※炭化モグサも用いた台座灸と温筒灸.台座灸の底はシール,温筒灸の底は糊となっていてツボに張付けることが出来ます.
お灸が施術される目的
お灸は、以下のような目的で使用されます:
リラクゼーション効果
熱による温かさが、ストレスを軽減し、自律神経のバランスを整えます。
血行促進
ツボを温めることで血液の流れを改善し、筋肉のコリや痛みを和らげます。
免疫力向上
温熱刺激により、免疫細胞の活性化が期待されます。
気の流れを整える
東洋医学では、「気・血・水」の流れが滞ると病気になると考えられます。お灸はこれを改善するとされています。
慢性的な症状の改善
冷え性、肩こり、腰痛、関節痛、消化不良、生理不順、不妊症などに対して効果が期待されます。どのような症状であっても台座灸を施術すれば良いというわけではありません.その症状に適した灸法がありますので,興味のある方はきゅう師にご相談ください.
難聴のお灸のご紹介
お灸は古来日本においても治療法・民間療法として広く用いられてきた方法です.無論,現代医学のような臨床エビデンスなどはありませんが,伝統医学は観察に基づき有用性の高い方法が受け継がれてきたものです.気軽にお試しいただければと思います。
瘈脈
これは耳の後方にある経穴です.このツボには通竅という作用があります.通竅とは,気(エネルギー)や血の流れが滞ることで起こる不調や症状(鼻詰まり、頭痛、耳鳴りなど)を解消し,視力・聴覚・嗅覚・味覚などの感覚器の不調を改善する作用,更には意識や不安などをクリアにする作用を指します.
この経穴の場所は,「乳様突起の中央にあり,翳風と角孫を耳翼に沿って結んだ線の下3分の1のところ」とされます.一般の方には分かりにくいかと思いますので図を参照してください.
図1—難聴に使われる頭部の経穴
中渚
これは手の甲にある経穴ですから,セルフケアには使いやすい経穴かと思います.
手背部で薬指の中手指節関節(MP関節)上方の第4・第5中手骨の陥凹部.
これも場所については図をご覧下さい.圧迫すると圧痛がある方も多いかと思います。
この経穴の作用には,開竅益聡・清熱通絡・理気解欝・名目聡耳などがあります.「感覚器へ流れる気血の通りを改善し,目耳の不調を改善する作用がありますよ」といったところです.
図2—難聴に使われる手の経穴
深谷灸法の施灸点
もう一つお灸を嗜む方には有名な深谷灸法からツボを紹介しておきます.
難聴に対する施灸点です。
耳の後方の施灸点 図1をご参照ください
ツボの場所は「耳介を横に半折りして,その折れた頂点を後頭部に押しつけた髪際の微かな凹みで圧痛がある.頭竅陰と完骨の間」とされています。先に紹介した「瘈脈」と程近い場所かと思います.
個人的な話ですが,日本特有の「透熱灸(点灸)」に興味を持ち,深谷先生や入江先生の灸法を研究していましたので,お勧めのツボでもあります.
このツボも瘈脈も毛髪の生え際周囲に位置するツボです.施灸前にヘアピンなどで髪の毛をまとめておくことをお勧めします.
照海
また,深谷灸法では「照海」という経穴への施灸も紹介されています.この経穴の一は「足内側で,内果尖端下方の陥凹部」となります.図を参照してください.この経穴には滋陰補腎作用があり,疲労消耗や老化による五官(頭部感覚器)の症状に効果的です。
図3—難聴に使われる足の経穴
施灸時の注意点
耳の後ろの経穴への施灸では,髪の毛の処理にご注意ください.ツボを取り,周囲の髪の毛をヘアピンなどで押さえておくと施灸しやすいかと思います.施灸する際は側臥位(横向きで寝る)で施灸部位を上に向けて,台座灸(せんねんきゅう etc.)に点火してからツボに置くと良いかと思います.
ご家族が点灸にチャレンジされる場合は,灸点紙(灸熱緩和紙)を用いて,心地よい熱さで数壮ほど施灸してください.
手足にある「中渚」「照海」も点灸を行う場合には数壮を目安に施灸してください.
灸治療は毎日コツコツ行うのがコツです.
参考文献
- 図説深谷灸法 入江靖二著 緑書房
- 軽度認知障害(MCI)診療マニュアル 監修日本認知症予防学会 編著者池田佳生・浦上克哉 中外医学社
- 詳解鍼灸要穴事典 編著趙吉平 ・王燕平 東洋医学学術出版社
- 針灸経穴辞典 編集李丁 ・ 天津中医学院 東洋医学学術出版社
- 早わかり経外穴 110選 張仁著 源草社