人は誰しも、いつか人生の幕を閉じる。
亡くなった後、その人は何によって記憶されるのだろうか。
若い頃の功績だろうか。
仕事で成し遂げたことだろうか。
家族や友人との思い出だろうか。
おそらく、そのすべてがその人の人生を形作っている。
しかし、人の評価というものは不思議なもので、長い人生のすべてが均等に記憶されるわけではない。
しばしば最後の姿が、その人全体の印象を大きく左右する。
そのことを考えるたび、私は葬儀で使われる遺影について思う。
遺影として選ばれるのは、多くの場合、晩年の写真である。
しかし、その人が最も輝いていた時代の写真を使ってもよいのではないか、と感じることがある。
人生で最も充実し、希望に満ち、力強く生きていた頃の姿である。
それでも多くの人が晩年の写真を選ぶのは、亡くなった直前の姿こそが、その人を象徴するものだと感じるからなのかもしれない。
容姿だけではない。
人は晩年の行動や態度によっても評価される。
長年にわたり尊敬を集めた人物であっても、最後に不誠実な行為をすれば、その印象は強く人々の記憶に残る。
反対に、大きな功績を残せなかった人であっても、誠実に人生を締めくくれば、温かな記憶として語り継がれることもある。
「終わり良ければすべて良し」という言葉がある。
人生のすべてを最後だけで判断するのは乱暴かもしれない。
しかし、人の記憶は必ずしも公平ではない。
最後に見た姿。
最後に交わした言葉。
最後に示した態度。
そうしたものが、その人の人生全体を代表するかのように受け取られることがある。
では、終わりが悪かった場合はどうなるのだろう。
長年積み上げてきたものが、すべて失われるわけではない。
けれども、その価値が曇って見えてしまうことはあるだろう。
人生の評価とは、足し算ではなく、最後に描かれた一筆によって印象が変わる絵のようなものなのかもしれない。
死ねば本人の人生はそこで終わる。
しかし、その人を知る人々の人生は続いていく。
家族も、友人も、仕事仲間も、その人についての記憶を抱えながら生きていく。
だからこそ、晩節とは自分自身のためだけのものではない。
残される人々が、その人をどのように思い出すのか。
その記憶に少しでも穏やかなものを残せるように、人生の終盤こそ丁寧に生きたいと思う。
若い頃の輝きは戻らない。
けれども、最後まで誠実であることは、誰にでもできる。
私が晩節を大切にしたいと思うのは、そのためである。

